2007年07月07日

たとえ母の胸にピカチュウが眠りついたとしても


●"ちゃん"付けで呼ぶには赤ん坊は尊すぎる●

私の中には赤ん坊がいる。
ぴちぴちに太っている。
欲求不満でバクハツ寸前のピカチュウなのだ。
赤ん坊は、感応する生物。

このピカチュウは、
普段いないふりをしている透明ピカチュウなのだ。
だけど、ある場所でバクハツしないではおれない。

そこは自分が愛されるつかのまの場所。
ピカチュウは、そこでバクハツを自分のものにするのだ。

その愛は、肉体的に働きかけられ表現された愛。
ピカチュウは、肉体的愛のもとにやすらぐ。

●わたしがピカチュウの存在に気づいたのは●

慈雨の雨。

わたしは、
雨が降るたびに雨に感謝して暮らしていたわけではなかった。

雨は、感謝せよと言わないのだ。
そしてただ降る。
もし、雨に、肉体が、実体があったとしたら。

もし、雨に、肉体が、実体があったとしたら。
わたしは、雨に感謝して暮らすかもしれない。
雨に、肉体がなかったときよりもやすやすと。
そして、雨に願うかもしれない。
雨を呪うことが、あるかもしれない。
雨に、肉体がなかったときよりもやすやすと。
もし、雨が自分に感謝せよといわなくても、
感謝しろと言われているような気がしてしまうかもしれない。
もし、雨が私に一言も言葉をかけなくても、
雨は私を見ている、私を感じていると
おもうかもしれない。
雨に、肉体がなかったときよりもやすやすと。

そこに肉体を感じたとき
その相手が雨であってでさえ、
わたしは甘え愛を抱く。
雨が降るのは当然だと思う。
雨のことをほかの何よりも深く愛する。
来る日も来る日も雨を願い、
もう一度雨が降ることを願うだろう。

そして雨が降るのは当然だと思う。
降ってほしいのに降らないと憎み
降らないでほしいのに降れば、邪魔と感じるだろう。
そこに肉体を感じたときには
その相手が雨であってでさえ、
わたしは甘え、愛憎を抱くだろう。

肉体は、生まれ落ちてしばらくのあいだ、
周囲のあらゆる気配に感応する。
母の肉体をよりどころとして。

ピカチュウは、母の胸もとでバクハツする。
何度でも、何度でも。
その胸もとから出発しようともがく、まるい影。

●愛されている。ただそれだけではもう●

今日には雨の国を去り、立ち歩いていこう。
それでも雨は、降るだろう。
雨は雨で、私は私で。

雨音のなかでくりかえした爆発の余韻を遠く聞きながら。

ながいあいだ、雨に愛されていたが
私の心は、雨を愛するには貧しかった。
いっそ雨音に変化(へんげ)すると願った時、私は肉体が絶叫するのを聞いた。
(わたしを忘れないでよォ・・・)

愛されているだけでは、もう、愛が
愛を求めるだけでは、もう
足りないのだ。もっともっと愛が、
慈雨では補いきれない、
私の愛が、
雨が。

posted by 水の紀 at 23:42| ドバイ | たとえ母の胸にピカチュウが眠りついたとしても | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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